香港や日本の新聞紙上で「江沢民氏死去」と報じられてからもう何日経ったでしょうか。その後、香港紙は報道内容を撤回し、中国大陸のメディアもいまだ死去と報じてないばかりか、ネット上でそれに関する話を検索しようとすると「関係法律と法規、政策によって一部検索結果が表示できません」という答えが返ってきてしまったりします。
それだけ江沢民氏の死というのは簡単、無神経には報じられないものなのでしょう。その理由や憶測については既に多くの中国通の方が書かれてると思いますので、それらの記事を検索していただければと思います。
本日、私が書こうとしておりますのは意外に同氏の経歴で知られていないこと、日本のネット上で検索しても触れられていないこと、であります。一般的に江沢民氏について語られている略歴は次のとおり(外務省サイトより抜粋)だと思います。
1.現 職
中華人民共和国主席(国家主席)、中国共産党総書記、政治局常務委員、党及び国家中央軍事委員会主席
2.略 歴
1926年 8月17日 出生(江蘇省揚州市出身)
46年 4月 中国共産党入党
47年 上海交通大学電気機械学部卒業
49年 以降 上海益民食品第一工場副工程師、工務科長兼動力部主任、工場党支部書記、第一副工場長、上海石鹸製造工場第一副工場長
53年 第一機械工業部上海第二設計分局電器専業科長
55年 モスクワ・スターリン自動車工場で実習(~56年)
56年 長春第一自動車製造工場動力処副処長、副総動力師、動力工場長
62年 第一機械工業部上海電器科学研究所副所長
上記工業部武漢熱工業機械研究所長、代理党委書記
71年 上記工業部「専門家視察組」の長としてルーマニアに派遣さる。上記工業部外事局副局長、局長
80年 8月 国家輸出入管理委員会副主任兼秘書長
9月 国家外国投資管理委員会副主任兼秘書長
上記両委員会党組メンバー
82年 5月 電子工業部第一副部長、党組副書記
9月 第12期中央委員
83年 6月 電子工業部長、党組書記
85年 6月 上海市党委副書記
7月 上海市長(~88.4)
86年 3月 上海市党委副書記
87年 11月 第13期政治局委員、上海市党委書記
89年 6月 13期四中全会にて政治局常務委員、総書記
11月 13期五中全会にて党中央軍事委員会主席
90年 3月 第7期全人代第3回会議にて国家中央軍事委員会主席
92年 1月 第14期政治局常務委員、総書記、党軍事委員会主席
93年 3月 国家主席、国家軍事委員会主席
97年 9月 第15期政治局常務委員、総書記、党軍事委員会主席
98年 3月 国家主席、国家軍事委員会主席
ここで注目していただきたいのは「1946年中国共産党入党」「1947年上海交通大学卒業」という箇所です。実は江沢民氏が先に入学したのは「上海交通大学」ではありません。同氏は江蘇省揚州市出身です。そして同氏が大学受験をした当時は中華民国の時代であり、首都は南京でありました。そんな時代にエリートであった同氏が入学したのは「南京中央大学」でした。当時の中国No.1大学です。同氏が同大学に入学しても不思議はないし、むしろ自然と言えます。
では何故、わざわざ卒業大学を「上海交通大学」としてあるのでしょうか。実は「南京中央大学」に同氏が入学したのは1943年。汪兆銘による日本傀儡政権下の南京における最高学府への入学だったのです。
この事実は中国南京では多くの人が知っています。私が「江沢民は南京大学(当時の南京中央大学)OBである」と聞かされたのは私が南京大学の修士課程に通っていた2001年の頃でした。私は修士生である傍ら南京大学外国語部で日本語を教えていました。ある日、外国語部のオフィスで講義の準備をしていた時です。「丸尾、この建物は昔、江沢民が寝ていた宿舎だったんだぞ」そんな話を聞かされたのです。
2002年は南京大学の建校百周年の年でした。南京大学にとっての百周年というよりは江蘇省にある数ある大学にとっても百周年の年でした。と言いますのは、江蘇省のほとんどの大学は南京大学から派生していったからでした(汪兆銘政権下の南京中央大学は現在の南京大学と東南大学を合わせた大きさで、大変な規模でした)。それだけに2002年は南京市中がお祭り状態でした。実に様々な記念行事が催され、南京の街自体もこの年に合わせて大分綺麗に再開発されました。
私が南京大学建校百周年記念大会に出席した時でした。一般的には中国共産党幹部は自身の出身大学の記念行事には顔を出すものだったようです。会場に集まった何千人という学生達はきっと江沢民国家主席(当時)の登場を期待していたのでしょう。江沢民主席は記念式典に姿を見せず、メッセージだけが読み上げられました。そしてそのメッセージが読み終えられた時、何と会場の学生からはブーイングが起こったのです!
私も内心、国家主席の登場を期待していた(だから式典に参加した)ので、ガッカリしたものです。江沢民氏が1943年に揚州中学を卒業した時、抗日を唱える南京の大学生達は皆、重慶や成都に学び舎を移していました(蒋介石の国民党政権は重慶市を臨時首都としていた)。もちろん江氏も志があれば、四川省に行く選択肢もあったはずです。しかし、同氏が選んだのは故郷の揚州に近い南京で、日本傀儡政権下の教育を受けることでした。
戦争が終わり、汪兆銘政権が解体されると南京中央大学は上海交通大学ととりあえず合併をして親日教育色を一掃されることになります。その後も、江氏は上海に留まり、上海交通大学で学位を取得することになりました。そして江氏が南京大学OBであることは全く語られなくなったのです。
江沢民氏は養父である江世侯(叔父)に育てられたといいます。江世侯は中国共産党幹部にまでなった方らしいのですが、実は実父の江世俊は日本軍占領下の揚州で特務機関に勤めていたといいます。日本占領下の南京大学に入学したという事実が全く語られないのと同様に、「“漢奸”の息子であったという事実を伏せるために叔父の養子ということにしている」という見方もあります。
江沢民氏の死亡についても色んな説がこのところ出てきました。しかし、いずれにしても重体であり、本人が再度、政治の表舞台に立つ可能性は如何程でしょうか。「江沢民氏は最後の最後まで旧日本軍との関係を隠し続け、中国の最高権力者としての立場を守り続けた」という結果になりそうです。
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