4月10日(土)は向島の有名な桜を眺めに行きましたが、本当の目的は大倉喜八郎氏の向島別荘を探しに行くことだったのです。東京府下南葛飾郡寺島村(現在の向島二丁目)にあった別荘はなぜか評伝には記載がありませんが、中野清茂 別名・中野碩翁の別荘跡なのです。
*中野碩翁 江戸時代後期の9000石旗本。鋭い頭脳を有し、風流と才知に通じていたとされる。幕府では御小納戸頭取、新番頭格を勤め、十一代将軍徳川家斉の側近中の側近であった。また、家斉の愛妾・お美代の方(専行院)の養父でもある。新番頭格を最後に勤めを退いて隠居、剃髪したのちは碩翁と称した。隠居後も大御所家斉の話し相手と随時、江戸城に登城する資格を有していた。このため諸大名や幕臣、商人から莫大な賄賂が集まり、清茂の周旋を取り付ければ、願いごとは半ば叶ったも同然とまでいわれた。本所向島に豪華な屋敷を持ち、贅沢な生活をしていたが、1841年に家斉が死去し、水野忠邦が天保の改革を開始すると、登城を禁止されたうえ、向島に逼塞した。(本所向島に豪奢なる下屋敷を造りたるに諸大名の権臣その他多数の来客がありて、付近の商人は為に家業が繁昌したといはるヽ程華美なる生活をしてゐた。)
大倉喜八郎氏は河川敷の敷地八千坪のうち三千坪を埋め立て別荘を建てました。年に一度花見をした4月8日には感涙会という催しを行い二百名を超える財界人(渋沢、益田)、文人(露伴、食い逃げ諭吉)を招待し豪華な食事や芸を愉しみました。今の共栄倉庫の辺りで喜翁閣のあった場所にピンクの高層マンションが建っています。今では高速と産業道路に挟まれ住環境としては相応しくないように思いましたが、なぜか気持ちの良い風が流れており、この土地の力は今でも力強く脈打っているように感ぜられました。
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